週刊新潮の中吊り広告とカポーティの言葉

最近、自分の中に雑念が多い。すごく嫌だなと思う。

 

少し遡るけれど、イギリスに来る少し前のとき、東京で電車に乗っていた時に見た中吊り広告が忘れられない。週刊新潮の広告だった。

何で記憶に残ってるかというと、それがもう邪念の塊に見えたからだ。(週刊新潮の関係者の方がいらっしゃったらすみません。)

正直に思ったこととしては、「それ書いてどうすんの?」とか「それどんな気持ちで記事書いてんの?」とか。例えば有名人の揚げ足をとるような記事を書いてて、「そんなん別に人の勝手じゃん。良くない?」みたいにいつも思ってしまう。それで他人の話なのを良いことに勝手に祭り上げて、卑しいタイトルに引っ張られて雑誌が売れれば満足なんだろうか、とか。

 

とにかく、自分の視界に入れたくもないと思ったのを強く覚えている。その時に、ふと思い出したのはアメリカ人作家トルーマン・カポーティの言葉だ。カポーティは『ティファニーで朝食を』で有名だが、非常に若い時から作家として成熟していた人らしい。(僕もそこらへんの作家の実力とか評価については全然わからないが、村上春樹とgoogleはそう教えてくれた。)

カポーティは、まだ10代の頃のその鮮烈な作家デビューで一躍有名になったが、その時に社会でもうひとつ話題になったことがある。その処女作の著者プロファイルの自身の肖像画が『病的なまでに美しかった』ことらしい。あまりの美しさに、記者たちは彼に「どうやったらそんな美しく写真に写れるんですか?」と聞いた。カポーティはこう答えた。

 

「簡単さ。頭の中を美しいものだけでいっぱいにしておけば良いんだよ。」

 

なるほど。なるほど。

ちなみに、この言葉は、村上春樹がこれについて書いたエッセイを『村上ラヂオ』で読んで知った。(僕はこのエッセイ集が好きで、前にこれについて記事を書いた。)村上春樹はそれに対して「そう簡単に言ってもねえ。それってすごく難しいですよねえ。」というようなことを彼らしく言ってた気がする。

 

実際それをするのはすごく難しいと僕も思うけど、もうちょっと「自分の場合は…」という話で考えてみる。現在の僕は雑念が多くて、カポーティの美しさとは正反対。けど、何でこうなっているかと言えば、精神的に無理があるからだと思う。

やらなきゃいけないことに気を取られてると、そこに対するポジティブなモチベーションがいつのまにか消えていく。そうなると、残るのは義務感。次第にそこだけに向き合うのが辛くなって、雑念が心に生まれてくる。

だから、そこでしっかり向き合うための自分の精神的な健康(強さ)を保つために、少しだけ自分を甘やかせてあげる。元気な精神は、同じ状況に対してもより建設的な見方や姿勢をもたらしてくれる。

そうやって上手く自分の精神的な強さを意識的に保っていくことが、カポーティの言う場合の「頭の中を美しいものだけでいっぱいにする」ためには必要な気がする。(大事なのは甘やかした後にちゃんと戻ってくることだけど。)

 

だから、僕は「ハリー・ポッター」を見た。なんて面白いんだろう、ハリーポッター。(大事なのは甘やかした後にちゃんと戻ってくることだけど。2回目。シリーズものは怖い。)

きっとカポーティも、村上春樹も、同じようにどこかで精神的な健康を保つために何かをしていたはず。彼らも映画とか見てたのかな。カポーティがもしハリーポッターとか見て楽しんでくれてたら、何だか凄く嬉しくなっちゃうね。

 

(挿絵:カメイサチコ)

 

1件のコメント

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA