意識的に相手を好きになる

僕は特に意図がないときは、相手の自分に対する向き合い方をそのまま返すようなコミュニケーションをする。例えば、自分に対して凄く好意的に接してくれる人に対してはそのままこちらからも好意的な態度を出すし、自分に興味がなさそうな人に対しては僕も無関心だというような振る舞いをすることが多い。(実際に無関心かどうかはその時々による。)鏡みたいだな、とよく思う。

最近人に言われて気付いたが、これは多分凄く楽なんだと思う。なぜなら、自分が傷つく可能性が低いからだ。例えば、自分に無関心な相手に一方的に好意を向けるような接し方をし、それが返ってこなければどうだろう。少なからずきっとヘコむ。このコミュニケーションのスタンスは、無意識的にそうやって自分が傷つくのを避けていたのかもしれない。

 

でも、時として自分に関心がない(ように見える)相手をこちらから先行して好きになり、相手からも好きになってもらわないといけない場面もある。分かりやすいところで言えば面接だったり営業はそうだろう。もっと広く見れば、自分ひとりで出来ないことをやるときは絶対にそういう場面が出てくるはずだ。

この間、僕はそういう場面に出くわした。同じ人に会うのが2回目で、1回目の印象は正直少し苦手だなと思っていた。でも、苦手だとか言ってる問題でもなく、そこで成果を出さなきゃいけない。僕はとりあえず笑顔を徹底し、相手のことを意識的に好きになりにいった。言ってしまえば洗脳だ。
すると、どうだろう。こちらから先行して好意を出していくと、相手から帰ってくる感じも1回目のそれとは全く違うものだった。結果として、自分の中での相手の印象は大きく変わり、最初は自己暗示的に好きになろうとしていたのに、自然と好意が自分の中から湧き出てきた。素直にそれを嬉しく思った。

以前、J.D.サリンジャーの「キャッチャー・イン・ザライ」を読んだが、実はその前に何度か挫折していた。でも、どうしても読み切りたかったので、僕は著者のサリンジャーと訳者の村上春樹について凄く調べた。どういう人物で、どういう人生を送っているのかを知って本に対する興味を強めた上で、改めて本を手に取り、今度は読み切ることが出来た。これも、意識的に作者を、そして作品を好きになりにいったエピソードだ。

自然にしていて出てくる感情や好意は、素直なものかもしれない。でも、同時にわがままで偏狭な見方になっている場合も少なくない気もする。労力は使うが、そこで意識的に相手に好意を持って接することで、意外と新しい気付きやチャンスが出てくるかもしれない。そして、意識的に好きになろうとして実際に好きだと思えたときは、何となく凄く喜ばしい気分になる。昨日はそんなことを思いました。

キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)

1件のコメント

  1. 目の前の世界は顕在意識の鏡だね〜
    見えてるところから変えようとしていくのが手っ取り早いのかもね

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